TAKUROH TOYAMA

PRINTED IN AN EDITION OF 600 COPIES.
1ST OCTOBER 2021

PHOTOGRAPHS BY TAKUROH TOYAMA
DESIGN BY NATSUKO YONEYAMA
PRINTING & BINDING BY LIVE ART BOOKS
COOPERATION WITH YYY PRESS

PUBLISHERD BY Fu-10 LLC.

COPYRIGHT © 2021 TAKUROH TOYAMA
PRINTED IN JAPAN

ORDER
2022/1/31

Text for “DEVENIR”
柴原聡子

宙づりのふち

場所もいまいちわからない、空き地の数々。どこにでもある郊外の風景。ただ、90年代以降、特有の景色として認識されてきた「郊外」とは少し違う。郊外、何かの外、周縁部、という都市部に向かう方向性が示された言葉ではなく、単に間にある場所。これらの場所はどこも向いていないように見える。

時間もそうだ。ここは、これから開発される「事前」の場所なのか、あったものが撤去された「事後」の場所なのかがわからない。ここはいったいどんな価値を見出される/見出された場所なのだろうか。かつてはあったニーズが、なくなってしまった場所なのだろうか。それとも、改めて価値が付され、これから人が住む場所になるのだろうか。

写真集『DEVENIR』に収められている、「object」と名付けられた一群の写真には、場所も時間も宙づりになった風景が、ただひたすらに綴られている。



価値を剥がれた土地

コロナ禍になった2020年の4月、私は借りている都内の事務所に半分住むようになった。もともと住める設備もそろっている部屋なのだが、生活と仕事が地続きになるのも嫌だったし、首都高に面した若干殺伐とした周辺環境もあり、5年間ずっと通っていた。自宅はいわゆる郊外にあるので、満員電車に出くわす確率も高い。だから、コロナが蔓延している間は電車に乗る回数を減らしたくて、1週間を4日と3日に分けて行き来することにした。たった2か所の往復。極力出かけないようにしていたし、外食も激減した。その影響も否めないが、仕事と生活の両方を行う拠点がふたつになるだけで、こんなにも地に足着かない感じになるとは思わなかった。通勤より、ずっと心もとない。そうして 1年半くらいが経つ。ふたつの場所を行き来するうちに、郊外と都心の違い――都心の方が何でもあって便利で、主に仕事をする場所――が崩れ、どちらもほぼ同じ価値の場所になった。やっていることに変わりはない。

人は住む場所をどうやって選ぶのだろうか。一般的に、人は自分の生業との関係性や、周辺環境の快適さを利点と捉え、居る場所を決めると言われる。ただ、生業の多くが、通勤という形態をとり、土地から切り離されるようになった現在、住まいの条件は、地の利がよくて、買い物できる場所が近くて、交通の便が良いことが優先される。次くらいに、見晴らしや陽当たりや、自然豊かといったことも出てくるが、土地の個性は見えづらく、条件も均質化している。

トヤマさんの写真にある土地は、そんなふうに人間本位な価値付けを繰り返された結果、よくわからなくなってしまった場所という感じがする。近代以降、あるいは戦後という短い期間の中で、開発三昧のなれの果てとしての空き地とでも言おうか。しかし、これらの写真を見て特定の感情が浮かぶことはない。ただそこにあるだけ。それは、私が2拠点生活にしてから、どちらの場所にも愛着が薄れていったことに似ている。コロナで活動(主には先に挙げたような、交通や買物の利便性に関わる)が制限されることで、どうも薄れたように思う。つまり私は、友人たちとあまり会えなくなったことを差し引いても、土地の個性とは関係なく享受できるサービスで、場所の価値を判断していたことになる。それは大きな危機のように感じられる。自分の鈍さが、いつか大きなリスクを招くのではないか。真剣に、土地と自分の関係を見直さなくてはいけない――?



愚鈍化する都市、先鋭化する田舎

かつては「郊外」と呼ばれたであろうトヤマさんが撮る場所が、なぜ今、行き場のない宙づりの状態に見えるのだろう。私は、都心と郊外の両方で生活することで、なぜ自分が関わる土地の価値を見失ってしまったのだろう。

理由のひとつに、都市が歳をとってきている、ということがあると思う。東京のことしかわからないけれど、それでも、自分が都心に通うようになっておよそ 30年が経った中で一番くらい、都市の疲れを感じている。昨年から始めた、住まいに関するリサーチプロジェクト「住むの風景」で、この気づきは顕在化した。例えば、世界各地の都市研究をやってきた建築家のレム・コールハースは、近年“rural”なエリアに着目し、2020 年にグッゲンハイム美術館で「Countryside, The Future」という展覧会を行った。これは、都市がモノと情報が最も集中する刺激的な場ではなくなり、IT関連施設が置かれる田舎の方が最先端であることを前提としている。加えて、コロナの蔓延によって世界中で在宅勤務が増え、ニューヨークでは若い人たちがどんどん地方に移住しているし、マンハッタンのオフィスビルは、空室が増えて困っているというニュースもあった(あのエンパイアステートビルでさえ入居会社が減り、巨大テナントであった地階のスタバもなくなったという)。東京都心では変わらず巨大再開発が繰り返されているが、いわゆるオフィスビルのニーズは若干危ぶまれ、すぐ近くには、築50年くらいの雑居ビルがまだまだある。開発とセットでオープンする商業施設も、利便性は高いものの均質化が進み、かつてほど人を惹きつけるものになっているとは思えない。

一方で、地方はむしろグローバルな問題の最前線に立たされている。気候変動のあおりを受けやすく、人口減少や高齢化、農業などの一次産業の減退(食糧自給率の問題にもつながるのだろう)は深刻化の一途をたどっている。同時にサーバーセンターや半導体の工場ができ、再生エネルギー施設ができたり、候補地とされて地元住民による反対運動が起きたりなど、何やらSFの世界みたいなことが普通に起きてしまっている。都市生活者が夢見る里山的な暮らしは、もはやイメージでしかない。先日、東北へリサーチに行った際に、水害に遭って家を失った方が、近くに再建した新築の家を前に、「水は大丈夫かもしれないけど、最近は風もあるからね。安心はできないよ」と、さらりと言っていたことが印象に残る。事実、話を聞いた2週間後にアメリカで季節外れの超巨大竜巻が発生した。私はいくらニュースで見知っていても、ここまで体感として水や風のリスクを感じられているだろうか。

こんなふうに、都市と田舎は従来とは違った意味で対照的になってきている。都市が愚鈍化していき、田舎の生活が先鋭化している、そんな逆転現象が起きているのかもしれない。

そのどちらでもないもやもやとしたところに、トヤマさんが撮る宙づりの場所がある。首都圏から田舎へという内外が逆転してもなお、取り残される間の場所。この中途半端な場所の未来は、いったいどんなものだろう?



現在地から見る「My Future」

これまで多くの写真家が、旅とともにエクストリームな光景を撮影してきた。遠くにある(かもしれない)理想の風景だ。彼らの作品を通して、鑑賞者は、秘境や大自然といった、行ったことのない場所の景色を知り、好奇心をくすぐられる。たとえ荒廃地を撮ったものだったとしても、やはり「見たことがない」「知らない」という意味で、イマジナリーな風景だ。一方、トヤマさんの写真は、ほとんどが彼自身の住まいの近くで撮影されたものだという。ただ、日々のインティメイトな生活情景を撮るわけでもない。日常のちょっとした発見やずれみたいなことでもない。ふと見上げた空や夕焼けが美しかったから、みたいなセンチメンタルな感じもない。だから、イマジナリーな要素はほとんどない。ない、という意味では、モチーフも空き地が多いので、撮る対象すらないと言えばない。イマジナリーな光景はひとつも「ない」が、これが今の中途半端な都市生活者に残された「風景」なのだろう。

都市は忙しなく緊張する場で、田舎は自然豊かでリラックスできる土地。そう思いこんでいるうちに、現実の都市は色あせ、田舎は SFの世界に移行しつつある。その間で宙づりになった「風景」は、「現在地」だ。都市と地方の価値がゆるやかに逆転していく中で、どちらの変化にも接続できないエアポケットに入りこみ、価値も、時間の行き戻りすら拘束された状態が、トヤマさんの撮る「風景」に写り込んでいる。私が自分の居場所に対して、どこにいたって同じだと思ってしまった愛着の薄れが、この空き地の写真に投影されている。

『DEVENIR』の巻末には、「My Future」というラベルが貼られた看板の数々を写したシリーズがある。言葉の下には、絵が貼られている。雨ざらしだったためか、絵はほとんど剥げてグレー1色になってしまっている。未来はきっとよくなると信じられていた価値観も壊れた今、見える行先は、まさにこの消えかけた絵のようだ。一歩を進めることも逡巡してしまうような感覚。コロナ前の生活に戻りたい、そんな決まり文句が聞こえる日々。絵が剥がれ落ち、紙の素地もよれた状態の、身動きの取れない「現在地」が、まるごと未来へと送られていく。ゆっくりと、大きな塊となって動くから、なかなか気づけない。

一辺倒な価値基準に支えられていた土地がそれを剥がれたとき、人が土地へ抱く愛着とはどう生まれるのだろう。少なくとも私は、拘束されたまま未来へと送られていく宙づりの場所で、自らと土地との関係を考えていかなくてはいけないと思う。かつてそこにいた/今いる人々、生業の変遷、生態系、地形、気候……。そういったことを学びながら、自分がその場にいる理由を見つけ、愛着の中味を探っていきたい。それが、未来に向けて自分ができる唯一に近い備えだ。すぐそばで起きている嵐のような変化。いずれ訪れる危機。トヤマさんが写す「現在地」は、私が宙づりのふちに立っていることの、リマインダーになるような気がする。


※本稿を書くにあたり、空き地をめぐる思考については思想家の篠原雅武さんとの会話から、東北のリサーチについてはアーティストの瀬尾夏美さんから、さまざまなヒントをいただきました。この場を借りて、感謝いたします。



柴原聡子(しばはら・さとこ)

早稲田大学大学院(建築学)修了後、クリエイティブ・ディレクターのアシスタント、設計事務所や国立美術館広報を経て、2015年よりフリーランスの編集・執筆・企画・広報として活動。主にアートと建築の分野で、ウェブサイトや書籍等の編集およびプロジェクトのマネジメントを行う。2020年、これからの住まいをテーマに、人と土地の関係を探るリサーチプロジェクト「住むの風景」( newhabitations.com )を立ち上げる。一級建築士。