TAKUROH TOYAMA

PRINTED IN AN EDITION OF 600 COPIES.
1ST OCTOBER 2021

PHOTOGRAPHS BY TAKUROH TOYAMA
DESIGN BY NATSUKO YONEYAMA
PRINTING & BINDING BY LIVE ART BOOKS
COOPERATION WITH YYY PRESS

PUBLISHERD BY Fu-10 LLC.

COPYRIGHT © 2021 TAKUROH TOYAMA
PRINTED IN JAPAN

ORDER
2021/10/15

トヤマタクロウ写真集『DEVENIR』発表に寄せて
加瀬透さんとの会話

司会:米山菜津子(『DEVENIR』装丁担当)

トヤマ お久しぶりです。

加瀬 楽しみにしていました。

米山 今日はよろしくお願いします。まずはお二人の出会いからお訊きしていいですか。

加瀬 僕は10年ほど前からお名前は知っていて。ミツメのジャケットで知ったのがきっかけで、よりお名前を意識し始めたのは吉川周作さんとの二人展(2014年2月「I Want(ed) You to Feel the Same」/Therme Gallery )をやっていた頃かな。

トヤマ ちゃんと話したのはSTUDIO STAFF ONLYで、が最初かも。2018年くらい?

米山 昨年、加瀬さんがJAGDA新人賞を受賞されて、その際に必要になったポートレートの撮影をトヤマさんに依頼したんですよね。

加瀬 お願いする時、悩みました。トヤマくんにこんなこと頼んでいいのかなって……。

トヤマ 嬉しかったです。それでSTUDIO STAFF ONLYをお借りして、雑談しながらの撮影で、楽しかった。

米山 その時にふと近くで撮った写真がミツメの曲『Basic (feat.STUTS)』のジャケ写になっていたり、その時期に加瀬さんがミツメの別の曲(『フィクション』)のリリックビデオを手掛けられていたり、その辺からご縁がますます、という感じですね。

タイトル『DEVENIR』/切断と接続/視点の移動

トヤマ 写真集のタイトルが『DEVENIR』、日本語だと生成変化。ジル・ドゥルーズの言葉なんですけど。

加瀬 制作途中にドゥルーズがキーになったのですか?

トヤマ なんとなく普段考えていることにちょっと繋がるところがあって、調べたら面白かったんです。あんまり関係ないと思っていたこととかも……例えば李禹煥(リ・ウファン)の作品や著書なんかも好きなんだけど、同じようなことを言っているのかもと思う部分もあったりして、色々と接続されていったんです。最初からこのタイトルで! と思っていたわけでもないんですけど。

米山 入稿ギリギリで決まった感じでした。

加瀬 そうなんですね。

トヤマ 「これはこういうものです」と言い切るような名前をつけたくなくて。この言葉は途中っぽさもあるし、特定の何かというわけでもないので、いいかも……と。

加瀬 確かに、この言葉は、ドゥルーズ……を厳密に述べることは僕にはできないんですけど(笑)、例えばリゾームみたいに、ツリー状ではなくて地下茎状に繋がっていく関係性というか。それがこの写真集の「それぞれはシリーズで完結しているけど、各シリーズ同士の関係性も考え得る」というような印象を受けて。ひいてはトヤマ君の活動の全体を眺めることが可能な本なのかな、とも。

トヤマ 活動を続けてきて、切断と接続とを繰り返して関係が変容していく、というようなことを意識するようになって。今回の本はその感覚を形にしてみたいと思ったんです。捉え方を変更可能なままにしておくというか。

加瀬 確かに、それぞれの写真ひとつひとつが入れ替わる可能性もあり得るし、シリーズという単位でも入れ替わる可能性もありそうだし、入れ替わりによって鑑賞者と写真・写真集との関係性も変わっていきそうです。

トヤマ 最初は、ぜんぶの写真を裁ち落としで、2020年の1月から時系列で並べた状態から考え初めたんです。

米山 量ももっと沢山あって、A4の出力の束が7cmくらいとか。

トヤマ 実はそこまでの試行錯誤も長かったんですが(笑)。そこから少しずつシリーズに分かれて、構成と撮影が同時進行しているので、内容がどんどん変わっていくんです。「error」なんかは最後ギリギリになって入れたり。これは大判カメラでの失敗がきっかけなんですが、その失敗の写真がすごく気になって。もっと撮ってみようと思ったら全然うまく行かなくて、それでまた別のものになっていって、結果こうなったというような感じで。「error」には「さまよう、逸れる」という語源もあって、行為としてもそうだし、イメージ自体もそういうニュアンスがあるかなと。

「error」より
「object」より

米山 膨大な写真をまとめながら、これはシリーズになりそうだなと発見し、それをさらに撮り足していく、というプロセスでこの形になっていったんですよね。

トヤマ 例えば「object」が気になりだすと「object」的なものしか見えなくなるんですよ。それを撮っているうちに新しいシリーズのきっかけみたいなものに出会うと、今度はそっちに視線が引っ張られる。そうやってどんどん分化していく。ちなみに、「環世界」という言葉もタイトルの候補にあって。自分が知覚できる世界がズレていくというか。

加瀬 「Umwelt」。人間は人間、ノミはノミの知覚の世界がある、みたいな話ですよね。

トヤマ 人間の中でも、自分が気が付くものを他の人は気が付かないとか。さらに自分の中でも、今まで気づかなかったものが突如現れる時がある。その知覚の変化というか、移動が面白くて。しかもその移動が、強制させられるというか。

加瀬 ある視点に突き動かされるされる自分、みたいな。

トヤマ 「object」も、最初からこういうものを撮ろうと思っていたわけではないんだけど、突然何かに出会ってしまって、その後に見るものが違うように見えてきて、それをどんどん撮っていくというか。加瀬くんが『GATEWAY』で話していた「壁が急に違う感じで見えた体験」みたいな(『GATEWAY 2020 12』「人の話を聴く」 p10/YYY PRESS)​​、そういうことの繰り返しで。あれを読んだ時「ああ、わかるな、こういうことあるな」と思った。

加瀬 最初は「存在」にすら気がついていないものを、ある時を境に気になり出すことがあって。その体験っていったい何なんだろう?と思うんですよ。そういうことって、どういうタイミングに起こりやすいんですかね?

トヤマ それは写真を撮っているとよくあるかもしれない。小さなレベルではあるかもしれないけど。

米山 「見よう」「得よう」としている時って、逆にそういうことが起こりづらくないですか?

加瀬 ああ〜。確かに。

トヤマ 『〈責任〉の生成』という本に「予測誤差」という話が出てくるんですが、人間は常に予測を持って生きることに安住していて、同時にどこかで自分の予測が裏切られることを求めてもいるという。その誤差を修正するために自分の認識が上書きされることで、世界が以前とは違って見えてくるのかもしれない。

加瀬 知らない人が急に自分の家に訪ねてきて、あれ? でもどこかで見たことはあるような、でも今までは意識の外にその人はいた、みたいな感覚というか。意識の内側への突然の訪問というか。

トヤマ 自分の中に他者が入ってくるという感覚は生成変化にもつながるかもしれない。ドゥルーズの「DEVENIR(生成変化)」の説明で、蘭とススメバチの話が出てくるんです。蘭がスズメバチの雌の生殖器の形をしていて、スズメバチの雄が勘違いしてやってきて、それで花粉が移動して蘭が受粉するんだけど、その時に蘭はスズメバチの雄にとっての雌になっていて、スズメバチは蘭の生殖器官の一部になっている。なっているって言っても本当になっているわけではないんだけど。違うもの同士が出会って、お互いを引きずるようにしながらそれぞれ違うものに変化していく、というようなことを言っていて。

レイアウト/偶然性/地層

加瀬 今日ひとつ本作についてお聞きしたいと思っていたことがあって、レイアウトについてなんですが、レイアウトする行為って、行為自体に恣意性が必要だと思うんです。つまり写真の見方をおおまかに方向付けることなのかなと思っていて。大きくできたり小さくできたりと可変性がある状態のものを、レイアウトすることによって居場所や大きさを固定する。今回の本はシリーズごとに写真の大きさが違ったり、用紙が違ったり、1ページに1枚裁ち落としで写真が入っているものもあれば、1ページに何枚もランダムに入っているものもあったりしていて、それぞれのレイアウトを決定していく過程に「これは違う」「これは合っている」という意図や判断があるとは思って、それには何かしらの基準があるのかなと感じていて。どういう意図や基準のあり方を設定したのかなと。いくつも選択肢はあったと思うんですけど、どう可能性を絞りこんでいったのか気になって。

米山 この本をつくった流れとしては、これは裁ち落とし、とか、これは余白を多めに、とか、大体の点数などの大まかなレイアウトはまずトヤマさんが組んでいて。どういう意識でしたか?

トヤマ レイアウトの意図、作意みたいなところから逃げたくて、最初の7cmぐらいの束が生まれたんですが、あんまりしっくりきていなくて。そこから「portrait」のシリーズを抜き出して、余白をとってみたら、かなり見え方が変わって。やっぱりそっちの方が自然な感じがしたんです。その後も少しずつ撮ったり分けたりをくり返して、シリーズごとにしっくりくるレイアウトを考えるうちに、より違いが生まれてきて、分かれているけど繋がっている、という状態になっていった。李禹煥の作品のように「それ自体」だけではなくて「それとそれが起こす関係性や空間」に面白さがある、みたいな。そういう本になったらいいなと思って。

加瀬 その諸関係性を見つめることこそが今回の写真群であるとも言えるのかな。対象との関係が写真「化」している感覚というか。対象を撮っているんだけど、撮られた写真はそのもの自体ではない。あくまで現実から切り離されたものが写っていて。模造品というか。写真それ自体が関係の現れでもあるし、生成変化な感覚に繋がってくるのかな。

「portrait」より

米山 この写真集を作り出す少し前、トヤマさんは自分が撮っている写真にテーマ性があるのかないのか、ということを考えていましたよね。

トヤマ テーマ性とか、説得力、みたいなものに関してもそうですが、世の中で良いとされているもの、自分が良いと思うものに対して、自分はどういうところに位置しているのか、考えてしまうんです。コンプレックス……でもないけど。

米山 これはこれです、と言い切ることもしたくないけど、もちろんただ漫然と撮っているわけでもなくて、ずっと撮っているうちに「これは石パターン」「これは鏡パターン」のような柱が生まれてきつつも、それが完全にひとつのパターンに収束していかない、という状況に対して、どう考えたらいいのか、うーん、となっていた時期があったように見えて。その状態を何とか形にできないかという奮闘の結果、今こうなっている、というのが今回の本なのかな、と。

加瀬 写真を撮るときって端的に「撮りたい」という欲望があると思うんですけど、それより少し引いた視点でトヤマくんは自分自身の活動を捉えているのかなとも感じて。複数の写真が前提にあるというか。写真それぞれ関係の妙というか。そういう在り方がポイントなのかなとか。

トヤマ そう、かも。写真を介することで見えてくる関係がある。関係は項の外側にあるから、ある程度引かないと見えてこない。そもそも自分にとって、写真という行為自体が世界から距離を取るということなのかもしれない。

米山 そのトヤマさんが組んだレイアウトを受け取った時に、意外とまとめようとしてきているな、と私は感じたんです。整理されてきたな、と。整理されたこと自体は一時的にすっきりすると思うんですけど、あまりに固まった感じになると、次に対してのアクションとしては良いことだけではないかもと思って、この流れは硬いな、という部分を入れ替えたり、大きさを微妙に変えたり、ページ数が均等になっているところを増減させたりとか、シャッフルしたり、ずらしたりしたんです。揺らぎみたいなものを加えてみて。で、これでどうですか?とお戻して。

加瀬 へえ〜。それを見てどうでした?

トヤマ いや、さすが、って(笑)。どこかが劇的に変わったというわけではないのに印象が全然違っていて。すごくワクワクしました。そのあとは、この写真入れて欲しいな、というのだけ何枚かリクエストしたくらい。

加瀬 そのずらし方って……ずらすと、空気穴ができる、みたいなイメージなんでしょうか。組み立てて綺麗になったらそれもいいけど、ちょっと崩して隙間ができると、風通しが良くなるみたいな。

米山 崩すまではいかないかもしれないです。崩すと別のものになってしまう気がする。その揺らぎの感じは、もとの素材ーートヤマさんの写真、そのイメージ自体が持っているムードから持ってくるというか。私が外から力を加えるというよりは、内側からのニュアンスを染み出させる、という感じで。ずらしが必要ないと思ったらしないし。例えば「object」はこの裁ち落としの感じが最初からピタッときていたからほとんど触っていないんですけど、「この見開きの並びは理屈っぽい」と思ったら部分的にシャッフルしたりとか。トヤマさんは、別の場所でたまたま撮ったこの形が似ている、みたいなイメージを並べることへの興味があって。最初に話に出てきた、吉川さんとの展示もまさにそういう展示でしたが。

加瀬 相似形に反応するんですね。

米山 それはそれで残すところもありつつ、何度も続くとわざと狙っているように見えちゃうから、ちょっとほぐしたりとかして。

加瀬 シークエンスが綺麗すぎたらリズムを崩す感じですか?

米山 綺麗すぎると、「あ、そういうことね」と理解した気になってしまうじゃないですか。その腑に落ち度が、予想された腑に落ち度になるとあんまり面白くないな、と思ってしまうんです。この腑に落ちた感じ知ってる、みたいなことろじゃないところで腑に落ちて欲しいというか。

加瀬 なるほど。

米山 偶然性を含ませていくというか。正解はないんですけど。フィニッシュした日に、自分がこの素材やイメージを見た時の感覚がここに定着している、というのが自分のレイアウトのやり方で……。その日の体調とかその前の日にあったことで変わってしまうくらいの。

加瀬 偶然撮られたことから始まって、レイアウトも偶然性を増していく形。

米山 正解というか、「これ」という言い切りを求めなくていい、というのはトヤマさんと今まで話してきた中で共通認識として持っていて。

トヤマ 正解というより、とりあえず今はこうなった、という。

米山 その「こうなった」感にリアリティがあると思っているんです。

加瀬 リアリティのないものっていうのは逆に、どういうものでしょうか?

米山 1年前に「なるほど、わかった」というものを1年後にまた見ても、あまりリアリティを感じなくないですか? 長い期間を通して納得できるものというよりは、なるべく短い一瞬の実感をリアリティと考える、というか。

加瀬 確かに。永続してずっと同じ価値を保ち続けるということに関して、あまり信頼をおいていないということでしょうか。恒久に綺麗なまま情報や感動が残っていくということに対して。個人的にすごく納得しました。流転していく、価値観も風景も変わるし。その中である瞬間をふっと捕まえて、ひゅっとその日そう置いた。という感覚を残す、それを写真に、本にするという。

米山 いいものが常にいいものだということに対しての信頼感はないかもしれないです。

トヤマ それは逆に怖いことですね。

米山 ただ、そういう一瞬の強さって、10年後に見るとまた違ったりするんです。過ぎ去ったはずのリアリティが強烈に甦ってくることがあって。そういう断片的な実感をパッケージして未来に届ける装置としてレイアウトを捉えているかもしれないです、自分は。

加瀬 写真を撮った時の感覚と、レイアウトで揺らぎというか常に振動させておくみたいな感覚、そこにおふたりの響き合いがあるんだなと、聞いていて思いました。具体的な話だと、小口を階段状にしたのはどういう意図があったのでしょうか?

米山 あまりちゃんと言語化していなかったんですけど……この本のやりとりをしている最中、トヤマさんが撮った写真がどんどん増えていくんですよ。どんどん生み出されていく。その、続いていく、終わりのない感じが出るかもなと。

トヤマ それは初耳だった。僕はこの、より分かれている感じがいいなと。

加瀬 切断面がより見える。

トヤマ 地層みたいだし。

加瀬 確かに。ひとつになっているより、より分かれているけど繋がっているという意識を受けるかもしれない。

トヤマ どこからでもアクセスできるのも良いなと。

米山 区切りがわかりやすくなったぶん、それぞれのシリーズのタイトルは最後にまとめて入れて、最初にタネあかしをしない、意識を散らすようなこともしてみたりしました。

なぜ写真を選んだか/変わっていくこと/個人と歴史

加瀬 相似形という話がありましたけど、似たものを集めることに興味が向きますか?

トヤマ 集めるっていう感覚はあまりなくて。コレクトして、タイポロジー的にまとめるということには今はそんなに興味がないんです。その時その関係が偶然生まれると言うのが面白くて。

加瀬 シリーズが始まる瞬間は突然偶然に訪れると思うのだけど、終わる瞬間というのはどういう時だと思いますか。

トヤマ 厳密には終わりというのはないかもしれないです。区切るという方がしっくりくる。時間で区切ることもあるし、新しいものが出てきて強制的に移動させられるとか、単純に飽きちゃうとかして区切られていく。また戻ることもあるし。戻ったつもりが違うところに立っていることもある。

加瀬 クリシェになると興味がなくなるのかな。

トヤマ それは写真だけじゃなく色々なことに言えますね。

加瀬 もともと表現の手段として写真を選んだ理由って何だったの?

トヤマ 最初は表現をしようなんて考えていませんでしたが、物事の見え方が変わるのが面白くて。写真は誰でも簡単に始められるし、わからなくてもちゃんと写るから良いですよね。スピーディーだし、表現として軽いところも性に合っている気がします。自分ではコントロールできない部分が大きいところも。

加瀬 確かに、ごく短い時間で画像を生成できる。

トヤマ 一瞬で生成できるし、しかもそれが大きな偶然性を孕んでいて、自分の予測から逸れていく。この本も、編集作業と並行して写真はどんどん増えていって、最初に想像していたものとは違うものになった。そういうのが生理的にも合っている。

加瀬 ちなみに、写真を撮り始めた頃のモチベーションと、今の写真に対するモチベーションて違うのかな。吉川さんと展示していた頃のトヤマくんと今のトヤマくんは違うなと僕は感じていて。写真って撮り始めた頃は、きっと撮ること自体や何かが写ること自体に喜びがあるような気がしていて、でもそれだけではいられないという期間もあったのかなとか。撮ってきた中で変化ってありましたか?

トヤマ 撮ること自体が楽しい、というのはいまだにありますね。ただ、続けていくうちにクリシェ化していく自分に気付く時があって。過去の自分がダメというわけではないけど、外部から強制的に思考させられたり、撮らさせたりという刺激が欲しくて。写真の行為そのものというより、写真によって変わっていくことが大事というか。となったら同じ所にはいられない。続けるためには変わらざるを得ない。

加瀬 それは意識しながら変わっていく?

トヤマ 外的な要因で変わることが多いので、特に意識はしていないかもしれない。意識してこう変わりたいと思ってもできることとできないことがあって(笑)、結局こうなっちゃうというのもあるから、そこは否定せず。だから自分で変わっていると思っていても、人から見たらわからないかも。

加瀬 個人的には、今作でもシリーズごとにも結構ムードが違うと感じました。例えば「MY FUTURE」と「object」でいうと、どちらも撮られている対象を認識しやすいけど、でもここに吹いている風の感じは違うなというか(笑)。ほんと感覚的な話で申し訳ないのだけど、「object」は無風で、「MY FUTURE」はちょっと風が吹いていそうな感覚があって。違うんだけど、どちらもトヤマくんの視線を感じて。今作を全体通して見たときも、全部違うんだけど、同時にトヤマくんが撮った写真だということもわかる。それはなんなんだろう。

トヤマ なんなんだろう(笑)? 物事をどうやって見ているか、世界に対してどういう態度をとるか、ということなんだろうけど。身体的な要素もあるとは思う。

加瀬 トヤマくんはこの先も変わっていくのかなと思ったのだけれど、それが具体的にどういう風に変わっていくかはわからない?

トヤマ 変わっていくということしかわからない。

「MY FUTURE」より

加瀬 ちなみに、シリーズは並列して在る感じなんでしょうか? 過去作と最新作に優劣がある感じではなく?

トヤマ この写真集内に関しては、優劣はないです。ただ、並列というほど綺麗に並んでもいないかも。別々の場所にある感じというか。まだシリーズになっていないもの、タネみたいなものもいっぱいあって。それが何かのきっかけでどこかとくっついて形になるかもしれないし、ならないかもしれない。だから撮ることは、種を播くみたいなことでもあるのかもしれない。ついいつも撮っちゃうものも色々あって、例えば網目状のものとか。ゴミ捨て場のネットとか蜘蛛の巣とか。

加瀬 つい撮ってしまうもの、ってどういう傾向があるんですか?

トヤマ 傾向と言われると、なんでしょうね。窓とか植物もそう。ある時、網目状のものをよく撮っていることに気づいて、無意識から、「網」が顕在してくる。それから網について考え出す。網って何かをキャッチするもの、網膜も光をキャッチするもので……そういったことが恣意的に接続されてより気になってくる。けど……言葉で考えているだけではわからないからまた撮る、みたいな。全然まとまらないんだけど……。

加瀬 その構造自体が気になる?

トヤマ 構造とか意味的にも気になっているし、そもそも見た目が綺麗だなというところでも気になるし。世の中は網目状のものに溢れているということにも気づいて、より見えてくる。

加瀬 今作で、ボケがある写真が多くなったなという気がしていて。それはどうしてでですか?

トヤマ 元々は「portrait」のシリーズがこの中だと一番古くて。

米山 「portrait」は、ほぼ人と会えない時期に、以前に撮った友達や旅行の写真を複写したというシリーズですね。

トヤマ これは2020年の1月にちょっと試しにやってみたら「こういう風にボケるんだ」という発見があって。一度目の緊急事態宣言下に数十枚撮って、それ以来もうやっていないんですけど。この時期は絵画についての本をいくつか読んだりして影響を受けていて。フィルムカメラで写真を絵みたいに見えるように撮る、というのを試してみたんです。絵画的な構図とか光で写真を撮るんではなくて、もっと直接的に表層的に絵みたいに見えるように。「みたいに」というのが割と重要で、精巧な模倣がしたいわけではなくて。自分が見ていたものをちょっとずらしてみたいというか、違うように見てみたい、という興味があって。「camera obscura」は、家にある段ボールでカメラ・オブスクラを作ってみて、スクリーンに写った像を複写しています。ぜんぶ自分の部屋の中で撮ったもので。昔の人は絵を描く時にこういう風に見ていたのかなって、自分の知ってる見え方と違うというのが面白くて。大判カメラと大まかな構造はそんなに変わらないはずなんですが、つくりが甘くてピントも合わないし、やっぱり全然違うんですよね。知覚をずらして移動していくというのが重要で、写真自体にメッセージとかはないんです。

加瀬 カメラって元々はピンを合わせるのがすごく大変で、はじめの方の写真はボケていたんじゃないかとも思って。今回の写真集を見たとき、最初に「camera obscura」がボケてて、「portrait」もボケている。「object」になるとピンがあってくる。僕はそれを見て、カメラの技術の歴史とこの本の流れが結びついているのかなと思ったんです。カメラの歴史のチャレンジそのものがここに詰まっているのかもと。個人的なチャレンジと歴史的なチャレンジが結びついているのかなと。

トヤマ そこまでは考えてなかった(笑)。けど、「portrait」の時も「camera obscura」の時も写真と絵画の関係について考えていたし、カメラ・オブスクラを作ったのはデイヴィッド・ホックニーの『絵画の歴史』という本とかがきっかけの一つではあったから、一応歴史について含まれてはいるのかも。

「camera obscura」より

加瀬 批評的だなと思ったんです。一見、スナップ的な写真でも、ボケているものが集められて、連続して並ぶことによってまた違う意味が浮かびあがってくるように感じるし、「portrait」シリーズ単体でも見始めと終わりでは全く違う心地がしたり。本書ではその後にデジタル一眼で撮った「object」がきて、過去のフィルムカメラ機器から現代のデジタルカメラ機器の移り変わりと共に対象への目線の在り方が変化する。そのようにして、トヤマくん個人の視点と、今まで写真史の中で試されてきたことが結びついた本なのではないかと(笑)。

トヤマ すごい(笑)。でもそうやって、いろんなところと接続してもらえるような本にしていきたいなとは思っていました。

加瀬 でも、最後の「MY FUTURE」はちょっとベクトルが違うのかなと思って。

トヤマ これはぐるっと囲まれた敷地のフェンスに何十枚も掛けてあった絵を撮っていったもので、すぐに撮り終えたんです。

加瀬 そう聞くと、この写真集の最後のシリーズにあたる「MY FUTURE」はこの本の構造全体に関わっている気もする。円環上に対象が並んでいて、それらはそれぞれ似ているのだけど、違うものとも言えるし、どこから見始めてもいいし、見終えても良くて。

米山 私はこの「MY FUTURE」っていうタイトルを付けられた絵たちが、なくなってしまっている……っていう先もないし後もないみたいな状況を、アイロニーでもあるんだけど写真としてはポエジーを感じる、という撮り方っていうのがなんとも言えないなと思って。

加瀬 撮影者はその捉えどころのない、むしろいくつも捉えどころがあるとも言える状況をただ受け入れている、っていう感じというか。

米山 その「どう捉えたらいいのかわからなさ」がこのシリーズの良さなのかなと。そういうものが〆にあるのはいいな、と本の最後にしたんです。

加瀬 複層的ですよね。一枚の写真のなかに印象の層が積み重なっているというか。

トヤマ タイトル的にも、『DEVENIR』って英語だと「becoming」で、何かになっていく、将来的なことを言っている言葉だから、リンクする部分もありますね。これがシリアスにならないのが、らしさなのかもしれない。

加瀬 確かに、ここに軽さが残るのが不思議。その軽さが、写真内の意味内容とは関係なく「MY FUTURE」全体に漂うムードにも思えます。

グレイについて/カメラの特性/選び方

加瀬 用紙ってどう決めましたか? 細かく見ると紙の白の色がぜんぶ違う。

米山 実は今回はあんまり紙白のことは考えなかったんです。印刷された時の質感、艶感とマット感と染み込み感を最優先して。用紙が2〜3種だと紙白の組み合わせを厳密に選んだりもするんですけど、今回はこれだけ種類があるから、勝手にまとまってくれるだろうと。で、それを淡いグレイの表紙で包み込む、という。

トヤマ なんでグレイにしたんでしたっけ。

米山 それはやっぱり曖昧さみたいなものを。たしか、この淡いグレイと、あと別案でコンクリートっぽいグレイと、アスファルトっぽいグレイの紙を候補で出したら、トヤマくんが「これ」って淡いものをセレクトしてくれたんじゃなかったかと思います。

加瀬 トヤマくんてなぜかグレイのイメージあるかも。

トヤマ グレイが一番好きな色です(笑)。ゲルハルト・リヒターがグレイはすべての色の集積みたいなことも言ってた。無形態な色とも。

加瀬 へえ〜。黒とか白じゃないんだ。

米山 グレイって言われて想像する色って、人によってかなり幅がありそうだなとか、そういうのもいいですよね。

トヤマ あと、黒か白かとか、右か左かとかいうことに対して疑問というか違和感があって。

加瀬 二項対立に対しての。

米山 グレーゾーンを愛する。

加瀬 グレーのままでいるという決定。

トヤマ 自分の写真自体もグレイッシュなトーンが増えたかも。

加瀬 この時(『SILENCE FELL』 2016/LOCALS AND THE COMMITTEE)は青っぽい感じがありますね。こう見ると写真が変わってきてますね。だんだんと、写っているけど何も写っていない、みたいな感覚になってきているというか。

トヤマ 過剰なものに対してのアレルギーがあって……。意味が過剰とか、色やコントラストが過剰とか。

米山 ひとつ前の写真集が『 [  ] 』という、カッコだけのタイトルなんですけど(便宜的にvoidと呼んでいます)、このシリーズの写真をさらに脱色したのが今回の「 [[  ]] 」なんです(便宜的にダブルかっこと呼んでいます)。

加瀬 これすごいですね。写真の幽霊のような感覚がありますね。情報が消えて無くなってしまって、微かな気配だけ残っているという。

トヤマ これはモノクロで出力して、カラーでスキャンしたものです。元の『 [  ] 』という写真集自体が「空虚が複製され続けていく」というようなテーマで。モノクロで出したのに色が乗っちゃってるというのもなんか幽霊っぽいですね。

「 [[    ]] 」より
「2020 」より

加瀬 ちなみに、気に入っているシリーズってあるんですか。

トヤマ 気に入っているというか、「object」みたいなものは出会えればまだ撮れそうだなという感じはあります。他のも、もっとやろうと思えばさらに工夫してできる余地はあるけど、とりあえず一段落。

米山 「object」と「2020」の関係は?

トヤマ 「object」は2021年から撮り始めたんです。なんか外に出たくなって。「2020」は全て2020年に撮った写真で元日から大晦日までを時系列に並べています。「object」と似たものを同じカメラで撮った写真とかもあるんだけど、自分としてはもう違う写真だなという気がします。

米山 「2020」はvoid感が強く、2021年からはobject感が強くなってる。

加瀬 情緒が引き抜かれている感覚を受けますね。

米山 いわゆるエモさみたいなものに対しての距離を感じます。

加瀬 例えば、波を撮っていても、エモくなりがちなところを、一歩引いて同語反復的な感覚になっている。「波は波」みたいな。

トヤマ デジカメで撮ると単純に解像度が高かったりテクスチャーが変わって、触視的になるなと思っていて。目で触るというか。引いているのにクローズアップっぽくなる。

加瀬 ある意味でグロテスクな感覚もありますよね。フィルムだとモヤっとしているが故にヴェールに包まれている感覚があるけど、「object」のシリーズは鮮明に写り過ぎていて、視覚に強烈に迫ってくるというか。人も写っている写真もあるけど、構造物として物と等価に写っているように感じて、フィルムで撮っている時とは明らかに違う態度が見える気がします。

トヤマ 僕が実際に見た風景もここまで素っ気無い感じではなかった。自分と切り離された、他者という印象が強くなりますよね。

加瀬 カメラの特性を把握して、ある風景に対しての適正解を当てていくという感じはあったりしますか?

トヤマ もっと適当かもしれない。

米山 以前、どういう風にカメラを使い分けをしているのか聞いた際に、だいたい狙った感じはあるけどそこからずれていくものもある、という発言があった記憶があります。

トヤマ 「object」を撮っているときはデジカメを持ち歩くようにしていましたが、普段とか特に目的がない場合は、カメラを使い分けるというよりも、アクシデントが起きるようにしたくて。例えば今持っているこのカメラを1ヶ月ずっと持ち歩いていたら起こらないことが、久しぶりに違うカメラを使ってみたら起こるかもしれない。それはカメラの特性の問題だけではない気がする。だから結構気分で変えています。

加瀬 常に偶然を呼び込む土壌を用意しているという感覚なんですね。

展示と本/偶然性を呼び起こすために/関係性の話

加瀬 写真って、撮った後、何か媒体に定着させるじゃないですか。展示するにしても、本にするにしても。写真を定着させる媒体に対して、今まで気にしてきたことなどありますか?

トヤマ 展示よりも本の方が好きで。展示はいまだにしっくりきたことがないです。

加瀬 そうなんだ。今作のようにシリーズが色々あると、面白い展覧会ができそうだなと思ったんですけど。

トヤマ 面白い展覧会、やりたいです(笑)。基本的に展示って一回性のものだと思うんですが、自分は元々、何回も見て発見したりとか、わからなかったものがわかるようになったりする瞬間があるとか、そういう方が好きなんですよね。もちろん一回の展示で大きな衝撃を受けるということもあるんですけど。

加瀬 昨今の展示って色んな難しさがあるというか、単純に額に入れて飾って見てもらうというだけでは難しい局面に入ってきていると思うんですけど。その中でも、ラディカルな展示というのはどういうものが考えられるのかなと僕も考えていて。

米山 支持体がディスプレイでもいいし、紙でもいいし、壁でもいい、なんでもあり得る。

トヤマ そのなんでもあり得るという状態がすでに日常化しているものだったりするから、見たことのない展示って難しいなと思って。

加瀬 確かに。ある部分では文脈と切断する必要があるというか。有限性かな。どこかで断ち切るラインを決める、制約がある方がいい方向に機能する場合もありそうです。

米山 本はそういう意味では切断性がかなりありますよね。

加瀬 トヤマくんが本から受け取っている良さはそこなのかな。ちなみに、オリジナルと複製物という意識はありますか?

トヤマ あんまりオリジナルっていう意識はないかもしれない。写真は複製芸術である、というところが良いと思っているから。全部がコピーで全部がオリジナルでもあるというか。僕は本は本で、プリント作品とは別のオリジナルであるという感覚があって。オリジナルプリントと呼ばれているものよりも本の方が好きなくらい。

加瀬 シミュラークルな世界ゆえの面白さというか(笑)。

トヤマ 展示は本みたいに残らないのが……(笑)。

米山 展示は体験ですよね。

トヤマ その体験にやられるということはあると思うんですけど。そういう展示をできるようになりたいです。

加瀬 写真って撮る時には、決まった大きさがないじゃないですか。L判、四切とか規格はあるけど、現代だとすごく大きなプリンターで出力出来たりもする。だからこそ展示をするのが難しいのかな。自然にサイズを決められない。選択肢が無限に出てきてしまう。

米山 本はそこも制約が色々あって、だからこそ作りやすいとも言える。

加瀬 写真を撮る時、撮った写真を見た時、媒体に定着させる時、と制作においていくつか仕上がりまで段階がある中で、どこか気持ちのピークはありますか?

トヤマ うーん、撮ったものを見た時かな。

加瀬 客体になる時だ。自分が撮る側から見る側に立ち位置が変わる時に一番テンションが上がる?

トヤマ 多分、そうですね。撮った写真を見る時に客体になっているとしたら、撮っている時は、主体とか客体とかの区別が曖昧になるのかも。自分がなくなるというか、目の前の植物を撮る時って自分も植物のようになってるというか。それも生成変化的なことかもしれない。

加瀬 撮る時に自分が消えて、対象と侵食しあって、グレイになる。その撮影行為の全体の風景だけがある、みたいな……。

トヤマ それを後から見て、あ、こうなってたんだ、って。で、そこからさらに本になった時に、また、あ、こうなったんだ、って。写真も本も制作途中に自分の手を離れる時間があって、他者が介入することで仕上がりが変わっていく。対して、写真の展示は、最後までコントロールしながら作り上げて、きちんと出来上がったものを見せるという印象が強くて、予測誤差が起こりづらいのかも。達成感はあるんですけど。展示にも偶然性が必要なのかもしれない。

米山 誰かに完全に任せて展示してもらったらまた違うかもしれないですね。

トヤマ 自分の考えの及ばないところで何かが起きるというのを期待して。

加瀬 確かに、想像できてしまうものは面白くないですよね。

米山 そうですね。何かよくわからないことが起きる余白が欲しい。

加瀬 米山さんは、どう偶然を起こす工夫をしていますか?

米山 私はスタッフィングですね。誰を呼ぶか。メンバーが固定されている場合は信頼関係があればイレギュラーな要素を投げ込めるし、条件的にイレギュラーにできない場合は新しいメンバーを投げ込む、みたいなことを。初めての案件の場合はなんでも起こり得るので、どこまで何が起きて許されるか事前にコミュニケーションを取っておくとか。エディトリアルっぽい考え方なのかもしれないです。なんとなく形が見えているものを集めるけれど、その組み合わせの妙で新しいことが起きるかも、みたいな。

加瀬 それ、すごく今回の本と繋がる話じゃないですか。関係性の話だ。もっとミクロな作業の中でもそういうことがあるんですか? このフォントとこのフォントは出会ったことないから出会わせてみようみたいな(笑)。

米山 あるかも(笑)。更にそれがどんな紙に染み込むか、そこにどんな言葉がのってくるか、という出会いもあるし。自分は、完成予想図に向かって作業を詰めていくというより、素材が色々あって、それをひとつのお皿に盛ったらどうなるか、という考え方をしがちで。

加瀬 着地点は考えたりしませんか?

米山 大まかには考えますよ。

加瀬 具体化しすぎないということ。なるほど。関係性の話になりましたね。組み合わせるのって、ペアリングじゃないけど、これとこれの組み合わせが有り得るんだっていう驚きが生まれやすいのかな。

米山 お皿が変わると、他では無しだったことがそこでは有りだね、みたいなこともある。

トヤマ 合わない、っていう良さもありますよね。

米山 合わないけど面白かったね、って(笑)。逆に加瀬さんは真っ白のお皿に一人で描いていける、みたいなところがあるじゃないですか。

加瀬 1人プレイが得意みたいな(笑)。どうだろう、苦手ではないですね。(笑)

米山 私は人と関わらないと作れないので、尊敬の念があります。

トヤマ 写真も対象がないと撮れない。

加瀬 でも、僕も全くゼロからじゃないですよ。何かしらの興味の対象がないと作れない。それは、具体的に言い表せない「感じ」や思いつきを体験して、それらをなるべく言葉を経由せずに、視覚化しようとするみたいなことを続けている気がします。でもその「感じ」が時間が経つにつれて、言葉によって明瞭に整理され始めるとその「感じ」への興味が薄れていくんですよね。勝手に納得しちゃうというか。意味が固定されて、想像を超えていくことが難しくなっていくというか。

米山 そうすると、出来上がるものが常に想像を超えられないということになる。

加瀬 だからどこかでまたジャンプアップするために偶然に頼らないといけないけど、それは必ずやってくるものなのか?って普段も考えています。

米山 加瀬さんはどうやって呼び込むんですか?

加瀬 全く普段自分がやらないことをやってみる、ということがありますね。自分がずっとこういうのはダメでしょうと思っていたことを強引にやると、意外と見えてない景色が見える瞬間があるというか(笑)。自分がそれをダメと思うことで、逆に権威立った考え方だったなと気がつくんですよ。ここにも可能性があったかもしれないけど、自分がそれをうまく扱えないからNGとしていただけってことに気がついて、それに凹んだりもして。好きなものだけ追っていても、フィルターバブル的に、そのエリアの中でしか生きていけなくなるのでは、みたいな感覚もあって。偶然の出会いをするためには自分が嫌だったものと衝突していくのも面白いのかなと思って。

トヤマ いいこと言うなぁ。

複数性についての雑談/言語学/最後に

加瀬 うーん、でも、複数性は悪だみたいな話もあるけど。そもそも多様性とは悪だ、みたいな話もあって。

米山 多様性が悪というより……、A・B・C・DからZまで全てに正義があって、他を侵害するものかどうかに関わらずその正義をすべて認めなくてはならない、それこそが多様性の正しい在り方であると言い切ってしまうと、世の中にものすごく薄い範囲のことしか成立しなくなる。そうではなくて、それぞれはそれぞれ在りつつ、そこと関わったり関わらなかったりしてグレーゾーンをうまく作っていくことも必要なのではないか、という話ですか?

加瀬 関係しない、っていう判断も大事というか。ドゥルーズはグレーゾーンぽさありますよね。

トヤマ  そうかもしれない。ある種のいい加減さ、中途半端さも必要というか。

米山 グレーゾーンにしておけるというのは体力や知力のいることですよね。

トヤマ 思考することはつねに反時代的なことだと言うし。グレーゾーンをグレーゾーンのまま受け止めていくという態度は、時に、思考していないように映るかもしれないけれど、そんなことはないと思う。

加瀬 人間はそもそも二値的な性質を持つと聞いたことがある (『千夜千冊エディション 宇宙と素粒子』著者 松岡正剛)。複雑なことを受け止められない、耐えられない生物であると。確かにそういうカオスな環境って困っちゃいますよね。

トヤマ なんで困るんですかね。

加瀬 やっぱり一旦分かった、という感情が欲しいのかな。

トヤマ わかる、振り分けるということ? 分けることでひとまずわかった、とするという。

加瀬 何かを判断しないと地に足がつかないというか。判断が曖昧のまま判断ができるようになれたら気持ちが良い気もしますね。

米山 物語とか神話っていうのはそういう、地に足をつけるための道筋ですよね。

加瀬 話が変っちゃいますけど、ポッドキャスト・Youtube番組「ゆる言語学ラジオ」の言語人類学者のダニエル・L・エヴェレット のアマゾン川に住むピダハンと呼ばれる民族についての回を聞いて、ピダハンは「今」が重要な民族であると。神話もない。そういう生き方もいいなと思って。過去とか歴史とかに囚われない。亡くなった人の話もしない。そこにいない他人の噂話もしないらしく。

米山 今ここにいない人の話はしない。

加瀬 その民族の研究をした人は敬虔なクリスチャンだったらしいんですけど、キリスト教の話を彼らにしたら、会ったこともないのによくその人のことを信じられるなって言われたと。で、ガーンとなって、それまでの世界認識が崩壊しちゃって。母国に帰って家族にキリスト教やめると宣言して、一家が崩壊しちゃったっていうエピソードで話は終わったんですけど……。

米山 「今しかない」というのがどういう状態なのか想像するのって難しい……。

加瀬 面白かったのは、農耕を教えても、未来に対する感覚が僕らと異なるのでなかなか覚えてくれないらしいんですよ。それでも一通り教えて、ある時、農耕のための道具を渡すと、いきなりそれを投げて壊しちゃったらしいんですよね。なんで? って聞いたら、投げたかったからって。その時は投げたかったから投げて、それで周りの人もその状況を喜んじゃうみたいな。面白いなと思って。一見単純そうに見えるけど、よくよく考えると奥深い複雑な世界がいくつもこの世界にはあるんだろうなと。

トヤマ 言葉自体も単純なのかな。

加瀬 言葉の数が少ないって言ってた気がする。少ないから、長くなりがちと。

トヤマ ソシュールが「言葉が世界を分節している」みたいなことを言っていて、そういうこともあるのかなと。

加瀬 「ゆる言語学ラジオ」にソシュール回もあって、それも面白かった。分かるって、分けるってことだからっていう話もあって。言語は差異を持った構造の顕著な表れですよね。

米山 今作のタイトルの候補に、「分節」っていうのもあったんですよ。

トヤマ 「articulation」。

米山 心理学の言葉で、それぞれが分かれていながらも繋がっている状態を表すらしくて、それを調べていたらわかる、わく、しる、とかを分析する論文が出てきたり。

加瀬 虹も国によって構成していると考える色数が違うとか聞いたことがありますね。世界はいろんな分節がありうる。

トヤマ 分け方で見え方も変わっていく。

加瀬 そういうことは、この造本にも現れているな、と思ったりもしました。

プロフィール

加瀬透

かせとおる/1987年生まれ。グラフィックデザインやエディトリアルデザイン等のデザインワーク、またグラフィックワークの制作・提供・展示を中心に活動。近年の展覧会に「2つの窓辺」(CAGE GALLERY|2021)等。受賞歴にJAGDA新人賞2021等。http://torukase.com/

トヤマタクロウ

1988年生まれ。写真を用いた作品制作を中心に、ファッション・音楽・広告など多分野で活動。近年では、「Sight」(TERRACE SQUARE、STUDIO STAFF ONLY|2018)を開催し、YYY PRESS より同名の写真集を刊行。https://takurohtoyama.com

米山菜津子

よねやまなつこ/1981年生まれ。グラフィック・エディトリアルデザイナー。出版レーベルYYY PRESS主宰。オムニバス冊子『GATEWAY』を不定期で発行するほか、オルタナティブスペースSTUDIO STAFF ONLY運営としても活動している。natsukoyoneyama.tokyo.jp